
秋田高陽教会は日本キリスト教団に所属する、秋田で最も歴史あるプロテスタント・キリスト教会です。私たちの教会は1884年(明治17年)に、アメリカからの2人の宣教師、スミス、ガルストによって設立されて以来、今日に至るまで、秋田にイエス・キリストの愛を伝えてきました。また、1905年(明治38年)にはこちらも秋田で初めての幼稚園である秋田幼稚園を設立し、神の愛による幼児教育を実践してきました。
教会には老若男女様々な人が集まっています。毎週日曜日には礼拝に集い、聖書を通して神さまの言葉に耳を傾け、賛美歌を歌います。そのようにして、過ぎた1週間への感謝の気持ちを表し、新しい1週間も神さまが共にいてくださることの希望をいただいています。木曜日には聖書の学びやお祈りをする祈り会がもたれています。また、ゴスペルやハンドベルに親しむ集会も行われています。
教会はすべての人に開かれています。私たちは人生を生きる中で、時に悩み、疲れます。思いがけない理不尽な出来事によって人生が破壊されるような思いを味わうことさえあります。その時に信仰は私たちを支え、人生を歩み続ける力を与えます。また、そうした特別な出来事がなくとも、信仰は私たちの人生にリズムを与えます。自分が自分の力だけでなく、神の支えによって生かされている事を教えてくれます。なによりもイエス・キリストは、私たちに「どう生きるか」という指針を示し、それを行なっていくための力(聖書はそれを愛と呼びます)を与えてくれるのです。
ぜひ、私たちの教会にお気軽にお越しください。けっして私たちの考えや信仰を強制することはありません。一人ひとりの立場に立って、それぞれを尊重しながら、与えられた出会いを大切にしていきたいと考えています。みなさまが教会にいらっしゃるのをお待ちしています。
沿革
1884年 | 米ディサイプルス教会のスミス、ガルスト宣教師ら来日。秋田で伝道を開始し、6月1日に最初の礼拝を守る。秋田県へのプロテスタント伝道の始まり。当時の名称は秋田基督教会。 |
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1889年 | 現大町4丁目に、1885年に秋田で永眠した宣教師夫人を記念したスミス婦人記念会堂を建築。 |
1905年 | ニーナ・スチーブンス宣教師により、秋田県で初めての幼稚園となる秋田幼稚園を開設。 |
1927年 | 2代目の会堂(園舎兼用)を建設(4丁目大会堂)。記念して寄贈されたアメリカ製のオルガンは現在も用いられている。 |
1940年 | 1937年、隣接の秋田郵便局の火災で水を被ったため、土地を逓信省に売却し、現中通5丁目に移転、園舎兼用会堂を建築(一番町会堂)。 |
1941年 | 日本基督教団に合同し、秋田一番町教会と改称。 |
1968年 | 敷地が狭く、周辺に映画館・飲食店が増えてきたことから、新興住宅地として発展が見込まれる高陽青柳町に600坪の土地を求め、園舎兼用会堂を建築して移転。秋田高陽教会に改称。 |
1981年 | 幼稚園横に現在の専用教会堂を新築。 |
1983年 | 宣教百周年を記念し、秋田集会と東京集会開催。 |
1987年 | 初代スミス宣教師が来日前に在任していたオハイオ州ウォーレンのセントラル・クリスチャン教会の青少年ら18名来訪。 |
1989年 | 百年史発行と「ウォーレン再開の旅89」を行う。インディアナポリスでのディサイプルス全国大会、ワシントン、ニューヨーク、ウォーレンのセントラル・クリスチャン教会を巡り、さらにカナダのトラウト元夫人宣教師・秋田幼稚園長を訪ねた。 |
1995年 | 教会員の高齢化に対処して、教会堂にエレベーターを設置。 |
1999年 | 教会墓地整備。 |
2024年 | 宣教140周年を迎え、ゴスペルクワイアとハンドベルクワイアを伝道の働きに位置づけ、新たな10年への一歩を踏み出す。 |
牧師紹介

牧師 田中 真
Rev. Makoto Tanaka
はじめまして!牧師の田中真(まこと)と申します。秋田高陽教会のホームページをご覧いただき、ありがとうございます。北海道・札幌生まれ、札幌育ちの道産子です。大学卒業後は大阪→札幌→東京→大阪と転々としながら、2023年4月に秋田高陽教会の牧師として着任しました。趣味はスポーツ観戦(野球・サッカー・サイクルスポーツ等)です。
教会で牧師の両親のもとに生まれた私にとって、教会は文字通り「家」でした。それがゆえに、教会で生きる喜び、神さまとともに生きる喜びがわからず、10年ほど教会から身も心も離れていた時期もあります。
しかし、自分自身が人生に挫折し、自分の弱さ、みじめさを突き付けられたとき、神さまは教会を通して、変わることのない愛で自分を受け入れ、癒してくださいました。その救いに一生をかけて恩返しするために牧師になりました。
教会は、人が帰るところです。それは、教会に生まれたかどうかではなく、人間みんなにとってそうだと思います。なぜなら、私たちはみな、神さまによってこの世に送り出された存在だからです。そのことに気づき、教会にみんなが「帰ってくる」ことができるように、聖書の言葉とイエスさまの愛を伝えていきたいと願っています。